前売り3回券はイープラス、ファミリーマート、ユーロスペース窓口にて発売中
史上もっとも過激なアクション映画と、もっとも前衛的な西部劇と、もっとも偉大な戦争映画を撮ったサミュエル・フラー。悔しいが、この男こそ映画そのものだと認めよう。
                 黒沢清(映画監督)
(『サミュエル・フラー自伝』帯文より)

※以下は第37回PFF 招待作品部門【特集 サミュエル・フラー】へのコメントの再掲載です。



1990年夏、渋谷、フラーが歩いた公園通り、道玄坂。小さな姿のフラーのすべてを見ようと、あんなに人が集まった夏。これがシネフィリーたちの最後の集まりになるんではないかと僕は泣いた。それから25年。もうフラーは東京の街を歩けないけど、嘘でもいいからもう一度、みんなが嬉しそうに集まってくれたら、フラーは、右手に握った大きな拳銃を何度も何度も空高く撃ってくれるだろう。
                 稲川方人(映画批評家・詩人)
サミュエル・フラーの映画(役者で出演しているものも)に出会うことは若ければ若いほど、良い。私たちが戦争と狂気の世界にはじめから投げ出されていること、そしてその最前線で生きる〜サバイブする事を教えてくれる。だからデニス・ホッパーやヴィム・ヴェンダース、ゴダールは彼の背中を見て学び、育ち、出演を依頼した。第2次大戦に従軍したフラーは、血塗られた己の背中を隠そうともせずに独立映画を撮り続けた。戦争を知らない総理が国民に背を向け、経済界と組んで金儲けの戦争を始めたがっている昨今、どちらの背中が信頼に値するかは言うまでもないだろう。
                 映像制作集団空族(富田克也・相澤虎之助)
「映画は戦場だ」と彼は言った。今や、映画の外もあらかた戦場だ。映画と映画以外の差異を精確に把握していたからこそ、フラーは途方もなくリアルな幻覚や、或いはアンリアルな現実を、自らのフィルムに刻みつけることが出来た。彼の映画は誰にも似ていない。今ふたたび、この真に孤高のシネアストの異常な作 品群が上映されると聞いて、僕は動悸を抑えきれない。
                 佐々木敦(批評家・HEADS主宰)
サミュエル・フラーを見れば映画が分かる。しかし映画が分かった者など、この世界にいない。謎を解く鍵は必ずここにあるはず。だからこそサミュエル・フラー作品は上映され続けなければいけないのだ。
                 松江哲明(ドキュメンタリー監督)
サミュエル・フラー監督は、激烈な挑発性と鋭い時事性に満ちあふれる題材を元に、時に極限活劇狂的な、時に内省詩的な「映画強度」をめくるめく葛藤させ、 深い人間洞察とタフな人間愛に裏付けられたドラマを浮上させた。ようするに「最前線の映画」を最初のハリウッドから最後のインディーズまで撮り続けた、背筋の伸び切った強靭な師匠だ。
                 石井岳龍(映画監督)
アルトマン、ペキンパー、そしてフラーの特集もある‘15年実りの秋。 
やさしさとは殆んど酷さに似ていると教えてくれたアメリカ男たち、その映画。
撮る上でも見る上でも、否、生きる上で不可避の人と映画たちだ。まずはPFFの旗の下に集結しよう!!!
                 川口敦子(映画批評家)
サミュエル・フラーの映画は暴力だ。フラーは暴力についての映画ではなく、暴力そのものの映画を作った。その映画を見るのは、腹にがつんとくるパンチを食らうことなのだ。
                 柳下毅一郎(映画批評家)
歪んだ現実に立ち向かう、勇敢な人物像…若い頃に『ホワイト・ドッグ』などに洗礼を受けた僕の心には、いつまでもフラーの魂がいる。
                 中原昌也(ミュージシャン・作家)
サミュエル・フラーの演出は、些末にこだわらない大胆さが豪快で、真に男らしい。低予算の映画の中で、何を表現し、どこをすっ飛ばすかの取捨の選択が、惚れ惚れするほど剛胆なのだ。そこにはまず疾駆する創造性とエネルギーがある。形式などは後からついてくるものにすぎない。とにかくゴチャゴチャ考えず、まずフラーの映画を見て、発せられる乱雑でカッカと輝くパワーを浴びるべきだ。
                 真魚八重子(映画著述業)
サミュエル・フラーの名を聞くと、自然に鋼鉄のようなモノクロームで描かれた戦場を、砂塵の上がる荒野を、夜の乾いた暗黒街を思い出し、また幻想的な色彩で撮影された木洩れ日の森を進む歩兵たちを、そして老兵士に肩車された少年のこときれる様が浮ぶ。そこには常に一発の、あるいは無数の銃声が鳴り響いた。 それは天に向けて空砲を撃つ監督自身の銃声でもある。一言で言えばそれが感動であり、それが映画だ。
                 青山真治(映画監督)
隣接の新聞社が特ダネとアイデアで狂奔する初期作『パーク・ロウ』は、表現の自由に関するフラーの原点確認めいた作品だったが、フラーにとってはどこも戦場とわかる。フラーは、メロドラマをナイフで切り裂き続け、葉巻の煙を挑発的に吹きかける。だれに? おまえだよ。
                 滝本誠(ライター)
どうでもよくないことが多すぎると、なにもかもどうでもよくなってきたりもするが、サミュエル・フラーの映画は、絶対にどうでもよくない。フラーの映画をどうでもいいと思える人がいるとも思えない。映画なんか観ている場合じゃないと感じるときこそ『最前線物語』だ。
                 三宅唱(映画監督)
フラーのようなぶっきらぼうなタッチは、今の映画にはまず許されない。つまり、芝居が心理の解説ではなくアクションの連鎖としてあり、画面が説明ではなく 切実な臨場感によるショックの連続としてある、直截で、力強く、冷徹なのにやたら熱い映画は、今はもう作れないということなのだ。だからこの機会に見る他 はない。
                 万田邦敏(映画監督)
ハンドルから手を離しても自動車が走り続ける。
歌うだけで料理がしあがる。
空砲で人を殺す。

この力学は何だろう。

「映画とは、戦場のようなものだ。
愛、憎しみ、アクション、暴力、そして死。
要するに、エモーションだ」

『気狂いピエロ』のカメオ出演でサミュエル・フラーを知った口です。

映画を見ます。
                 五所純子(文筆家)
いきなり畳みかけるようなアクションから始まる『ストリート・オブ・ノーリターン』やモリコーネの哀切極まりないメロディに導かれ、 静かに幕をあげる『ホワイト・ドッグ』の深い深い悲しみ、安易な感傷を徹底的に排しているのに、涙なしに見られない『最前線物語』。 ラストカットの急激なズームの衝撃に、映画が終わってもしばらく席を立てなかった『殺人地帯USA』。
スクリーンが事件の現場になることをサム・フラーの映画から学んだ。当然観客席は安全地帯ではない。 目撃者である私たちも無傷ではいられない。それでも、かつて20代の自分がそうであったように、なるべく若いうちにフラーの映画を体感してほしい。 それも映画館で。大きなスクリーンでしか体験できないことは確かにあるのだ。
                 篠崎誠(映画監督)


日本初公開となる待望の『チャイナ・ゲイト』、正常と狂気の境界が融解する『ショック集団』、そしてフラー作品の中でも異色作の『裸のキッス』。 どれもサミュエル・フラーの映画と言うしかない独自の風貌と、しかしあくまでもこれは絶対に映画であるこれこそが映画だと断言したくなる映画の強さを持った作品たち。誰もがどこかでこのような映画を作りたいと思っているにもかかわらず、フラーでしか実現できなかった正統的かつ歪んだ世界の姿に、わたしたちはここで直面することになる。さあ、目を大きく開いて、それを真正面から受け止めようではないか!

※劇場により上映作品が異なります。詳細は各劇場のウェブサイトなどでご確認ください。
チャイナ・ゲイト
CHINA GATE/1957/アメリカ/97分/BW/シネマスコープ/製作・脚本・監督:サミュエル・フラー/撮影:ジョセフ・バイロック/ 音楽:ヴィクター・ヤング/出演:ジーン・バリー、アンジー・ディッキンソン、ナット・キング・コールほか/ CHINA GATE ©1957 MELANGE PICTURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
『鬼軍曹ザック』(51)以来、フラーはジャンルを問わずアジアを舞台にした作品を数多く手がけている。本作もそうした一本。
第一次インドシナ戦争時の1954年(仏領インドシナからフランスが撤退した年)。かつて朝鮮戦争で戦ったアメリカ人ブロックとゴールディは、今や傭兵としてインドシナでフランス外人部隊に所属していた。やがてブロック率いる破壊工作班が、敵地を潜り抜けて中国国境にあるベトミンの軍需品集積場を爆破しに行くことになる。彼らの案内役に雇われた欧亜混血女性リーアはもともとブロックの妻だったが、彼との間にもうけた息子共々捨てられていた。現在五歳となったこの息子が、東洋人的風貌の持ち主だったためである。案内役を果たす見返りとして、リーアは息子を合衆国へ避難させる約束を仏軍と交わしている。やがて一隊は、危険な任務を遂行するべく出発する……。
“ラッキー・レッグズ(幸運の脚)”の愛称で呼ばれるリーア役を演じるのは、アンジー・ディキンソン(登場場面からその長く美しい脚がシネマスコープ画面で強調される)。白人と有色人種(この場合は混血)の恋愛描写は、『東京暗黒街・竹の家』(55)から始まり、本作を経て『赤い矢』(57)、『クリムゾン・キモノ』(59)へと引き継がれる、異人種間ロマンスの成就を積極的に描いたフラー作品の系譜に属する。偏狭な白人兵ブロックと対照されるのが、人間的暖かみに溢れた黒人兵ゴールディである。自らの分身めいたこの役にスター歌手ナット・キング・コールを起用した(同役は、脚本段階では黒人を想定して書かれていなかった)点にも、人種的偏見を自作で打ち破ろうとする作家の意思を感じさせよう。

『サミュエル・フラー自伝』より
「この映画では、理解と寛容を訴えたかったのだ。さまざまな夫婦、さまざまな人間、さまざまな民族同士が共生してゆくために欠かすことのできない理解と寛容を……われわれの子どもたちが戦争などもう起こらない未来を過ごせるように、もっと思いやりのある世界規模の考え方をするのが、この地球という名の小さな惑星に生きる人々の責務である」
ショック集団
SHOCK CORRIDOR/1963年/アメリカ/101分/BW(パートカラー)/1.78:1/製作・脚本・監督:サミュエル・フラー/撮影:スタンリー・コルテス/ 音楽:ポール・ダンラップ/出演:ピーター・ブレック、コンスタンス・タワーズ、ジーン・エヴァンスほか/ SHOCK CORRIDOR ©1963 F&F PRODUCTIONS,INC. ALL RIGHTS RESERVED
フラーの大ファンとして知られるジャン=リュック・ゴダールが、1965年度のベストテン映画の一本に挙げた神話的傑作。
新聞記者ジョニー・バレットは、精神病院で起こった殺人事件を解明することで、手っ取り早くピューリツァー賞を受賞しようと野心を燃やしている。彼は嫌がる恋人キャシーに無理矢理妹のふりをさせ、近親相姦的欲望を抱く性倒錯者を装って院内に潜入し、殺人を目撃した三人の患者に接近して下手人の正体を暴こうとする。その三人とは、共産主義者に洗脳された朝鮮戦争帰還兵、南部の大学で人種差別待遇を受けた黒人青年、原爆開発に寄与した天才科学者である。しかし周囲に感化されたジョニーは、やがてキャシーのことを本当に自分の妹だと思い込み始め……。
本作の主要舞台と呼べる病院内の長く無限に続いてゆくかに思われる廊下は、低予算の厳しい制約下、ジャン・ルノワールとの名コンビで知られる美術監督ユージーン・ルーリーが偽の遠近法を活用するなど独特の創意を発揮して作り上げたセットである。ルーリーのセットを少ない光源を用いて見事な白黒画面に収めたのは、『偉大なるアンバーソン家の人々』(42)や『狩人の夜』(55)の名撮影監督スタンリー・コルテス。誇大な野心に潜む狂気が病院内の患者や電気ショック療法のおかげで増幅されたジョニーは、ついにこの不気味な廊下で発狂する。廊下の時空が激しく歪んで彼の譫妄状態とシンクロするその瞬間の視聴覚表現は、まさしく衝撃的としか言いようがない。

『サミュエル・フラー自伝』より
「劇中では精神障害、人種差別主義、愛国心、核戦争、性倒錯を扱っていた。こうした主題群を軽率に扱うことなど、できるはずがない。断固として観客を挑発してやりたかったのだ……この映画に登場する精神病院は、アメリカのメタファーであった。患者の腫瘍を見抜くX線のごとく、『ショック集団』はわが国の病にメスを入れるのだ。さまざまな問題を率直に診断することなくして、問題修復など望めまい」
裸のキッス
THE NAKED KISS/1964年/アメリカ/91分/BW/1.78:1/製作・脚本・監督:サミュエル・フラー/撮影:スタンリー・コルテス/ 音楽:ポール・ダンラップ/出演:コンスタンス・タワーズ、アンソニー・アイスリー、マイケル・ダンテほか/ THE NAKED KISS ©1964 F&F PRODUCTIONS,INC. ALL RIGHTS RESERVED.
『ショック集団』(63)に続いて同じ製作者の下で撮られた本作には、美術のルーリーや撮影のコルテスほか、前作の主要スタッフがそのまま引き継がれている。
横暴なヒモに反撃して大都会を逃げ出した売春婦のケリーが、グラントヴィルという名の小さな町にやって来る。ケリーは早速地元の警察署長を相手に“商売”をするが、そのとき署長は彼女に町を出てゆくように言う。しかしケリーはその警告に耳を貸さず、これまでの生き方を捨てて町の病院で肢体不自由児の世話をする看護師助手として働き始める。やがて彼女は、署長の親友で町の名士であるグラントと知り合い、恋に落ちる。だが夢のような交際期間を経ていよいよ結婚となったとき、ケリーはグラントの抱える恐るべき秘密を知ることになるのだった……。
冒頭、コンスタンス・タワーズ演じる主人公ケリーが自らを搾取してきたヒモを叩きのめすアクションの強烈ぶりは、最初の一撃で観客の急所をとらえて離さない、フラー映画ならではの“つかみ”が最大限の効果を発揮した場面だと言えよう。この元売春婦が一見平穏な田舎町に潜む不誠実・悪意・偽善・不寛容・憎悪と孤独に闘う姿を描き出した本作においては、『拾った女』(53)や『チャイナ・ゲイト』(57)、あるいは『四十挺の拳銃(57)』に登場した、偏狭な男性社会の中で奮闘する気丈なヒロイン像が最も純化されたかたちで差し出されている。

『サミュエル・フラー自伝』より
「これまで世界中のいろいろな映画監督に、『裸のキッス』の冒頭シークエンスには影響されましたよと言われた。そう言われると、いつだってご機嫌になる。だが当時、わたしはただケリーという人物を嘘偽りなく描きたいと思っていただけなのである。ひとつの真実を示したいという思いだけが、映画言語の拡張を促すこともあるのだ」
ベートーヴェン通りの死んだ鳩<ディレクターズ・カット版>
Tatort : Tote Taube in der Beethovenstraße/1972年/ドイツ/123分/カラー/スタンダード/監督・脚本:サミュエル・フラー/製作:バヴァリア・アトリエ/プロデューサー:ヨアキム・フォン・メンガースハウゼン/ 撮影:イエジー・リップマン/音楽:CAN/出演:グレン・コーベット、クリスタ・ラング、アントン・ディフリンク、エリック・P・カスパー、ウィリアム・レイほか/ ©Tatort: Tote Taube in der Beethovenstraße (Bild: WDR)
約45年にわたって放映され続けているドイツの長寿テレビドラマ・シリーズ『犯行現場』の一挿話として製作されたもの。ただしフラーがオリジナル脚本を兼任したこの挿話は、一個の完全に独立した作品である。今回上映されるのは、従来劇場公開用に流通していた版より約25分長い123分のディレクターズ・カット版。
アメリカ人の私立探偵が、ドイツのボンにあるベートーヴェン通りで射殺される。殺害犯チャーリーは警官に逮捕されるが、のちに逃亡する。殺された探偵は、相棒サンディと共にあるアメリカ人政治家をめぐる恐喝事件(政治家と半裸のブロンド女が一緒に写っている写真が、ゆすりのネタ)を調査していた。サンディは、相棒の殺害と恐喝事件には何らかのつながりがあると確信している。彼は調査の途上で、例の写真に写っていたブロンド女クリスタと出会う。彼女はメンサーという男が率いる国際的恐喝組織の一員であった。サンディはクリスタを陥れて、半裸の彼女と別の政治家を撮った醜聞写真を捏造し、自分も恐喝ビジネスを生業とするプロだと思い込ませてメンサー一味に潜入する……。
『クリムゾン・キモノ』(59)の主演俳優グレン・コーベットと愛妻クリスタをメインキャストに迎え、いつになくリラックスして映画作りを楽しんでいるフラーの様子が画面の端々から伝わってくる。キャストとクルーがカーニヴァルの衣装に身を包んで登場する冒頭でも強調されるように、荒唐無稽な設定のなか楽屋オチめいたお遊び感覚が随所に顔を出す「漫画的犯罪劇」(フラー)である。

『サミュエル・フラー自伝』より
「『ベートーヴェン通りの死んだ鳩』は、始終どんちゃん騒ぎをしているような映画にしたかった。わたしは戦争映画やアクション映画を作ることを期待される監督であった。喜劇、つまり純粋な娯楽映画を作ることをずっと夢見ていたのだ。その夢を実現するチャンスを手にしたのであった」
フラーライフ
A FULLER LIFE/2013年/アメリカ/80分/カラー/1.78:1/監督・プロデューサー:サマンサ・フラー/エグゼクティブ・プロデューサー:クリスタ・ラング・フラー/ プロデューサー:ジリアン・ウォレス・ホーバット/撮影監督:シーマス・マッガーベイ/出演:ジェームズ・フランコ、ジェニファー・ビールス、 ビル・デューク、ロバート・キャラダイン、マーク・ハミル、ジョー・ダンテ、ティム・ロス、ヴィム・ヴェンダース、モンテ・ヘルマン、コンスタンス・タワーズ、ウイリアム・フリードキンほか/ ©CHRISAM FILMS, INC.
フラーの一人娘サマンサが、初めて監督を手がけたドキュメンタリー作品。作家が“ぼろ家”と呼んでいた仕事部屋を舞台として、総勢15名におよぶ映画人(フラー所縁の人々やファンたち)が、『サミュエル・フラー自伝 わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか』(遠山純生訳、boid)の各章からの抜粋を朗読し、その生涯を再構成する。 朗読者は以下の面々。俳優/脚本家/監督ジェイムズ・フランコ、女優ジェニファー・ビールス(『デンジャー・ヒート/地獄の最前線』(90)の主人公パティ役)。俳優/監督ビル・デューク(『ストリート・オブ・ノー・リターン』(89)のボレル副署長役)。映画監督ジェイムズ・トバック、ジョー・ダンテ、ヴィム・ヴェンダース、モンテ・ヘルマン、ウィリアム・フリードキン。『最前線物語』(80)で兵卒を演じた俳優たち──ケリー・ウォード、ペリー・ラング、ロバート・キャラディン、マーク・ハミル。英国の俳優ティム・ロス。俳優/脚本家バック・ヘンリー。女優コンスタンス・タワーズ(『ショック集団』で主人公ジョニーの恋人キャシー役、『裸のキッス』で主人公ケリー役を演じた)。
フラーの肉声を代弁する上記の人々の姿に、写真、歴史的記録映像、新たに発見された16ミリ映像(フラーが第二次大戦出征以降に撮影した素材や、ホーム・ムーヴィーの類)等が織り交ぜられ、作家のきわめてユニークな人生が親しみと共に浮かび上がる。

『サミュエル・フラー自伝』より
「発作は日毎の一刻一刻が尊いものであることを悟らせてくれただけでなく、自分には語るべき大きな物語がもう一つあると気づかせてくれた──わたし自身の物語である。陰鬱きわまる顔に世をすねたにやにや笑いを浮かべ、自らの死を思ってやきもきしつつこれといって何もしないでいるなんざごめんだ。いやはや、101歳まで歌い続ける覚悟のできた、アーヴィング・バーリンになった気分! わが生涯はどえらいお話になるぞ。なにしろ今までずっと、わたしは人生をあまりに忙しく生きてきたのだから」
ストリート・オブ・ノーリターン
Street Of No Return/1989年/フランス・ポルトガル/93分/カラー/35ミリ/監督・脚本:サミュエル・フラー/ 製作:ジャック・ブラル/製作総指揮:ジャック・エリック・ストロース、パトリック・ドゥロノー、アントニオ・ダ・クンハ・テレス/ 出演:キース・キャラダイン、ヴァレンティーナ・ヴァーガス、ビル・デューク、アンドレア・フェレオル、ベルナール・フレッソン
原作は、日本では『ピアニストを撃て』の原作者として知られるアメリカのノワール作家、デヴィッド・グーディス。彼とフラーとは40年代からの友人だった(グーディスは67年に死去)。フラーはグーディスの原作に、自分が新聞記者だったころの暴動の取材の記憶を重ね合わせ、本作のストーリーを作り上げていったのだという。
ナンバーワンの人気歌手だったマイケルは、その人気絶頂の時に出会ったバーの踊り子シリアと出会い恋に落ちるが、彼女は暗黒街のボス、エディの愛人だった。エディの復讐にあったマイケルは、シリアも失い、また、歌手の命である声をも失う。そしてある中の浮浪者にまで落ちぶれた彼は、ある暴動の夜、エディへの復讐のチャンスをつかむ。警察内での陰謀や、暴動の要因でもある麻薬売買など、その街を取り巻くさまざまな悪事の黒幕がエディであったことを偶然知った彼は、その悪だくみを暴くべく、警察署長たちとエディの屋敷に乗り込んでいく。
フラーは、主人公(キース・キャラダイン)の出演するビデオクリップを使い、かつての映画とはまったく違う形の語り口を導入する。それは、一瞬のうちに彼の人生の変化とその意味を見せるためのマジックのようなものだとフラーは語っている。自作の歌、フラーの作詞による歌などを披露する、歌手キャラダインの歌にも注目。

『サミュエル・フラー自伝』より
「グーディスとは友人だった、とブラル(製作者)に話した。そして心のなかで、この映画を作れば、わが旧友にしてどえらい作家を正しく評価する良い機会になるなと考えたのだった。デイヴィッドの小説を翻案する作業は実に楽しかった。あたかも彼が、肩越しにずっとこの作業を見守っていてくれたかのようであった。デイヴィッドも脚本の出来に満足してくれただろうと思う。」
ホワイト・ドッグ
White Dog/1982年/アメリカ/90分/カラー/35ミリ/監督・脚本:サミュエル・フラー/製作:ジョン・デイヴィソン/ 製作総指揮:エドガー・J・シェリック、ニック・ヴィノフ/脚本:カーティス・ハンソン/ 出演:クリスティ・マクニコル、ポール・ウィンフィールド、バール・アイヴス、ジェイムソン・パーカー、クリスタ・ラング
タイトルとなった「ホワイト・ドッグ」とは、黒人たちを襲うように人種差別主義者に調教された犬のこと。70年代に書かれた原作は68年のアメリカを舞台にした私小説的な形式をとって書かれたもので、フランスの5月革命やワッツの暴動、キング牧師の暗殺などの社会背景から、作者ロマン・ガリーの妻、ジーン・セバーグも実名で登場する。しかしフラーはそういった物語の背景を消し去り、ホワイト・ドッグを巡る小さな人間関係だけに絞る。しかしそのことによって余計に、背後の社会の闇が浮き彫りになる。
女優志願の主人公ジュリーはある日、白いシェパードを車で轢き、自宅で介抱。犬は無事元気になり、そのままジュリーの飼い犬となる。しかしある日、その犬は血まみれになって帰ってきた。そして、ジュリーの仕事場では、共演者に襲いかかる。どうやらこの犬は、特別に訓練された戦闘犬であるらしい。ジュリーは犬を連れて、動物の調教師を訪れる。しかしここでも犬は、調教師の使用人に襲いかかってしまう。そしてそれまで襲った人間は、すべて黒人ばかりだったこともはっきりする……。
アメリカでは上映禁止となった本作は、当初、ロマン・ポランスキー監督による映画化が予定されていた。フラーの元にオファーが来たのは、クランク・インの1か月ほど前だったという。撮影は、ドン・シーゲルやクリント・イーストウッドの作品で名高いブルース・サーティーズ。フラーとの共同脚本は、後に『L.A.コンフィデンシャル』や『8 Mile』を監督するカーティス・ハンソンが手がけた。

『サミュエル・フラー自伝』より
われわれが生きる世界は、多民族からなっている。監督第一作以来、わたしは世界をそんな風に描いてきたのだ。それに、どうして連中は我が軍歴を確認しなかったのか? わたしは民主主義を擁護するために危険に身をさらし、ファシズムと闘った。ファシズムは、あらゆる人間は生まれつき平等であり、その造物主によっていくつかの分かつことのできない権利――そのなかには生きる権利、自由である権利、そして幸福を追求する権利が含まれている!――を授けられている、との民主主義の原則に反するものだったからだ。
最前線物語
The Big Red One/1980年/アメリカ/113分/カラー/35ミリ/監督・脚本:サミュエル・フラー/製作:ジーン・コーマン/ 撮影:アダム・グリーンズバーグ/美術:ピーター・ジャスミン/音楽:ダナ・カプロフ/ 出演:リー・マーヴィン、マーク・ハミル、ロバート・キャラダイン、ボビー・ディ・チコ、ケリー・ワード
 


※ 劇場により上映作品が異なります。詳細は各劇場のウェブサイトなどでご確認ください
地域 劇場名 期間
札幌 札幌プラザ2・5 地下劇場メッセホール 終了しました
東京 ユーロスペース 終了しました
山口 YCAM 終了しました
仙台 桜井薬局セントラルホール 終了しました
福岡 Cinema tocoro主催 3作品一挙上映@清川リトル商店街 終了しました
名古屋 名古屋シネマテーク 終了しました
京都 同志社大学寒梅館 終了しました
京都 京都シネマ 終了しました
東京 新文芸坐 終了しました
大分 シネマ5bis 終了しました
鹿児島 petit cinema主催 『裸のキッス』上映@Goodday 終了しました
広島 横川シネマ 終了しました
神戸 神戸アートビレッジセンター 終了しました
大阪 第七藝術劇場 終了しました
横浜 シネマ・ジャック&ベティ 終了しました
十和田 Cafe & Bar Carbs Towada 終了しました
金沢 シネモンド 終了しました
広島 シネマ尾道 終了しました
東京 早稲田松竹 終了しました
沖縄 桜坂劇場 終了しました

※上映期間中は各劇場にてお買い求めいただけます。
サミュエル・フラー自伝
わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか
サミュエル・フラー、クリスタ・ラング・フラー、ジェローム・ヘンリー・ルーズ著
遠山純生訳

A5 判並製/784ページ/定価:6,000 円+税
ISBN: 978-4-86538-045-3

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“A THIRD FACE, My Tale of Writing, Fighting and Filmmaking.”
By Samuel Fuller, with Christa Lang Fuller and Jerome Henry Rudes.
© by Chrisam Films, Inc.

ジャン=リュック・ゴダール、ヴィム・ヴェンダース、ジム・ジャームッシュ、アキ・カウリスマキなど、世界中の多くの監督たちに慕われたサミュエル・フラー。

「アクション映画」「犯罪映画」「戦争映画」「西部劇」といったジャンルのルールを踏襲しつつ、しかし「サミュエル・フラー」としか言い得ない確固たる独自のジャンルを作り上げた彼の、背景と源はどこにあったのか?

犯罪事件記者でもあった彼の歴史は、そのままアメリカの歴史の光と闇とを浮かび上がらせる。ハリウッドの背景に広がるアメリカという夢の王国の持つ深い陰 影からこぼれ出た物語が1冊の書物となったのだ。これはひとりの映画監督の自伝であるとともに、20世紀という映画の時代の物語でもある。

 親愛なる読者諸氏よ、これからあなた方にわが生涯の物語を語って聞かせよう。あたかもわれわれが、わが家の食堂にあるマーク・トウェインのテーブルを囲 んでいるかのようにして。このテーブルの周囲で、数多くのお話と笑いが分かち合われてきたのだ。わが素晴らしきクリスタが、驚くべき思い出の数々を徹底的 に掘り下げる手助けをしてくれる。われわれは祓い清めるべき悪霊たちを見逃しはしないし、敗北や失敗を体裁よく見せる気もない。85年にわたって生きてき たなかでくぐり抜けた経験の数々を、活き活きとして力強く、肯定的な物語にするのが狙いだ。

 人間は死ぬ。みな同じ境遇にあるのだ。そしてわれわれ一人一人が、敗北も勝利もたんまり入った重荷を背負っている。その重荷を、微笑みを浮かべ、楽天的 姿勢を固守し、残された人生を最大限に活用しつつ運んで行こうではないか。そう何度も敗北に打ち負かされるがままになってなるものか。(本文より)